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プロフィール写真で黙祷や祈りの意志表明をすることに対して一言物申している人たち。に対して一言。

 


フランス・パリでISによる大規模なテロが発生し、多くの一般市民の方々が犠牲となった。


SNS上ではプロフィールを国旗にするなど、テロの犠牲になった方々へ鎮魂の意を込めた、個人単位でのわかりやすい意志表明が広まっている。

近年の国内事情であれば災害、原発問題、同性愛などに対して、関連する象徴的なモチーフやカラーと写真を組み合わせたものを、トッププロフィールに変更するという行動が多くみられるようになった。

それは単純に「賛成/反対」などをカテゴライズするというより、具体的にコメントせずとも「関心がある」と容易にアピールできる敷居の低さが受け入れられ、今やSNSの世界では主流になりつつある。

と同時に、このような表明方法が一般レベルに浸透することに対して「どうこう言うつもりはない」「否定するつもりはない」「中にはちゃんと理解している人もいる」などと、しっかり防衛線を張りつつ反論の余地をなくした上で、「本質を見極めたほうがいい」「知っといたほうがいい」「もっと考えるべき」という己の見解をふんだんにぶちまけ、今回のテロ行為に対する追悼の表現方法にクギを刺す人がいる。

そうした人たちの見解はこうだ。

先進国も結託してシリアを集中攻撃し、一般市民を巻き込み殺戮しているのわかってんの?なんでフランス国民が犠牲になった時だけなの?

というもの。

つまり“狭い日本に入ってくる情報だけ”“フランス=善、シリア=悪”と決めつけるのは間違いとし、軽率な行為で深慮が足らないのではないかと警鐘を鳴らしている。

これ自体には全く不自然さは感じないし、むしろ同感ですらある。実際にロシアが介入し行った空爆では、ISのみならず一般市民をも巻き込み、多くの犠牲者を出した。ISのような、教義上の狂気の沙汰と同じで、アメリカや当のフランスを含む先進国がやっていることは、ただ動機が違うだけで人類の蛮行であることになんら変わりはない。

ただしこれらのことと、プロフィール上で国旗をためらいもなく変える人たちに対して「やんわり」とクギをさすこととはまったく別次元の話のように思う。

そして、やんわり否定する人たちになかなか共通するのは「海外に友達もいて君たちよりも世界情勢には詳しい」「発展途上国に何回も行ってる」といったような、世界的価値観アピールを匂わしていること。説得力を上げたい気持ちはわかるのだが、この一点を垣間見た瞬間に共感が薄れてくる。

思考を広めれば、戦争やテロで亡くなっていく人たちの裏で、世界ではいまだ貧困と餓死は止まらず、教育が受けれない子供たちが世界中には大勢いる。これは広く認識されていることだとしても、早急に支援を必要としている国や人々のことも同時に気にかけ、問題提起していかねば不平等というものだろう。

では日夜、世界の貧困や戦争に悩まされる人たちのことを日常的に気にかけつつ、この社会の中で生き抜き、目の前の難題を乗り越えていけるか、というとやはりそれは難しい。

何をもってしてもまず、目の前の友人やパートナーを大切にしたり、学業やスポーツに真剣に取り組んだり、育児に追われる奥さんを励ます言葉や行動をつむぎ出したり、近隣の住民と友好関係を築いたり、社会人として結果を出すために日々奮闘することの方が優先事項になる。

かといって、そういう人たちは人命の尊さを理解してないかというとそうでもないし、世界に対し均等平等に想いを馳せることを意識していたとしても、やっぱり目の前の課題でいっぱいになる。残念ながら現実味のない痛みには無情にも共感しにくいのが人間の性だろう。

だからこそ、個人の人生の許されたわずかな時間でできる意志表明や支援活動こそが、他人の痛みを少しでも共有する上で大切なことだと思っている。

また「本質を見極めろ」「知ろうとすべき」というのも正しいことには変わりがないが、ここ日本国内を例にあげてみても、日米安保法制の賛否は激烈に二分する状況を生んでいる。では、この事柄の本質を見極めている人が一般レベルで何人いるのだろうか?内容は確かに複雑ではあるが日本語表記で、知ることのできる機会に恵まれ、個人が工夫すれば直接議員の話を聞くことだってできるのにも関わらず、だ。

先入観を捨て、憲法9条と13条の狭間を深慮すれば、”自衛隊”という言葉すらなかった時代に作られた憲法自体が多少ナンセンスなことは明白だし、世論を動かす力がある安易なデモ行為の方こそが圧倒的に危険なことだとわかるはずだ。プロフィール写真を変更することなど取るに足らない問題で、本来であればこういった「危険性をはらんでいる行為」こそを糾弾することの方が望ましい。

だからこそ、あらゆる実相に迫ろうとする姿勢は生きていく上でも重要なことで、ソースが不確かなネット時代に突入している昨今、裏のとれた確かな情報をいかにして入手するか、というのは現代において必須事項になる。

だが、多忙な現代を生き、そういった時間や手段がなかなか見当たらない日常の中で、少しでも心の琴線に触れたことに対して、個人的に黙祷や祈りを捧げたり、わかりやすくプロフィール写真を変えて意志表明することがおかしなことだろうか?

僕は全くそうは思わない。

むしろプロフィール上の写真変更という“個人単位の小さな善行為”は、黙祷や祈りを捧げたいと思った素直な気持ちの表れとして人間的で心温まる行動だと思う。

ただ、こういったことにクギを刺す人たちは、普通に生活している人に比べて、各国の諸問題に対して真剣に考え取り組み、より具体的に支援している人が多いように感じる。しかも今回の問題提起は、IS掃討作戦のリーダーシップを発揮しているアメリカの企業であるFacebook側がトリコロールの素材をわざわざ用意し、盲目的なキャンペーンとして取り入れたことが発端となっており、FBサイドに対して怒りをあらわにし、疑問視をしているようにも感じる。

こういった方々は継続的な活動の必要性を知っているゆえに、一時的なムーブメントを嫌う傾向にあり、否定的な見解を持つことは理解できる。その中で多く語られてるように、多角的に想像力を働かし、あらゆる側面から考察することの重要性に対しても激しく同意だ。

それをふまえて、プロフィール写真を変更するに至るプロセスが、自分の中にある他を思いやる心に従ったものだとしても、さらに実相や痛みを全て理解しなければならない必要があるのだろうか。募金や支援をすることに、いちいち理由付けが必要なのだろうか。

先にも書いたが、そんなことを考えてる時間の後ろで、テロではなく、餓死している子供たちもいる。同じ死である。プロフィールごときでその実相を問いただす瞬発力を発揮するならば、この辺りもぜひその瞬発力で公平に取り扱い、支援を呼びかけてもらいたい。

重ねて、亡くなられた全てのご遺族の方たちへの配慮は絶対忘れてはならないし、遥か遠い土地とはいえ、軽率な言動や行動は慎みたい。もっと言うなら日本でさえもテロの標的たり得る。今の世界情勢は、日本が戦争を起こさず加担しなくとも、第三次世界大戦が起こりうる危険をはらんでいる。

そういった点からもいつ何時、この平和が揺らぐかわからない危機感は持ち続けたい。本音をいえば、最愛の国民、最愛の人を殺された怒りだとしても、無差別テロリストなら殺してもいいという報復行為も、突き詰めれば終わらない戦争の螺旋の一端でしかない。

それを加味しつつ、世界の一員として深慮したとしても、結局のところ日本に居ても隣の人の痛みですら感じにくいものなのに、世界の痛みなんてなおさらわかるわけがない。だからこそ、たとえ行為そのものが偽善や模範でも、悲しみや痛みを少しでもわかろうとするきっかけになったり、共有、共感しようとする小さな善行為は、小さな始まりとして大切なことだと思えてやまないわけです。

断固として戦争やテロが絶対悪であることに変わりはない。
今回いろんなところでプロフィール写真を変更することに対するバッシングのような記事が目に付いたので、個人単位の小さな善行為に至ったプロセスを守りたいという一点から、正解のないことに対して自分の想いをエントリーしました。

しかし、プロフィール写真を変更することに対してでも、ある一定の正しさや情報が必要になるとか…なかなか難しい世の中ですね;(

▼シェアしてもらえるとめっちゃ嬉しいです:)
  2015/12/03
       
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